当方、社会不適合につき

アスペ系社会不適合者奮闘記 25歳現在

ハローワーク!

ハローワークに通っている。仕事を探している。

 

ただピンとくるものがない。

自分でもできるかどうかわからない、どうすればいいかわからない。

ただ只管に、「無謀だ」という気持ちが湧き上がってくる。

 

多くの人は「自分ってこういう人間だから」というぶれない軸の様なものを

持ち合わせている様だ。少なくとも自分の周りはそうらしい。

 

求人を眺める。

 

「興味なくはないけど、強い興味があるわけではない」

「やりたくないわけじゃないけど、やりたいわけでもない」

「できなくもないけど、できないかもしれない」

 

作業にしても具体的な想像ができない。働くとは何なのだ?

とにもかくにも、経験が不足していることを強く実感している。

当たり前だが、知識よりも多くの経験がモノをいう事を前職で知った。

百聞は一見に如かずである。

 

ハローワークの就職カウンセラーからは、

「教員免許、持っているならなんでもできるよ」と言われたが、

教育実習は、ただ”こなした”だけである。流れゆき日々を流れるままに

見つめていたら時が過ぎて実習が終わった。それだけだ。

いつもそうだ。眺めていたら時が過ぎて終わる。常に傍観者だ。

 

求人を眺める。

 

それでも、なんとなく良さそうだった求人に応募することにした。

専門施設の案内担当だった。流れていく人波を眺めているだけで良さそうだ。

 

施設の外に出ると、怪しげな60代前後の男性に声をかけられた。

自衛隊への勧誘だった。自衛隊に関しては諸事情でかなり知識があるので

そこそこに盛り上がった。そして将来設計の話になった。

 

将来の夢はあるかどうか

 

驚くほどに将来に対するビジョンがないことに気付いた。

こうなりたい、ああなりたい…それがない。結婚も子供も興味がない。

何が好きか、何が嫌いか、はっきりしたものも特にない。

好きであっても、絶対に好きという事もない。

 

必死になって失敗して馬鹿にされ、行き場を失うことを恐れている。

失敗すると、自分自身を馬鹿にし、

ここにいない存在だと思うことで精神の安定を図っている。

 

必死になろうとして出来ない、という経験は多い。諦めたことも多い。

いや、表面上は諦めているが、あとでだらだらとそのことについて愚痴を垂れてきた。

 

そんなだからいつまでたっても成長できず、周囲に馬鹿にされ続けてきた。 

そして、精神の安定を図るために以下のように思考する。

俺は馬鹿だから、そう言われても仕方ないのだ、俺も俺の事を馬鹿だと思う。ただ、それを言う者もまた、馬鹿だ。相手を馬鹿だと認識しているなら、”馬鹿である概念”がはっきりしているはずであり、そして相手は『馬鹿ではない』即ち”有能”であるはずである。”有能”であるなら”馬鹿”と”能力者”の違いというものをハッキリ区別しているはずだ。『お前のやり方では間違っている。俺がお前であったならばこうする。』『お前がこうしていることは、間違いなのだ』という行動指針があるだろう。少なくとも”馬鹿”であるポイントは指摘できるはずだ。指摘さえあれば討論の余地がある。『何故こういう行動をとったのか』。心理がわかれば行動への転換もしやすい。それをただ単純に”馬鹿”と揶揄して終了するのは非生産的でひどく独善的であり、自己愛に満ち溢れた行為だ。ひどく短絡的で軽率な思考ですらある。本当に有能で、行動の効率化を図るのであれば、馬鹿相手にもわかる様に説明するべきであるし、人間は組織の中で互助していくべきである。『互助していくべきではない』というのであれば、話は別であるが。こちらはそちらの言い分(他人を馬鹿にすること)を受け入れているのにもかかわらず、なぜそちらはこちらを受け入れようとしないのか。そして何より何故、その行為の効率の悪さに気が付かないのか。それこそ”馬鹿”である。

 という風である。こういう思考の発生も無駄なのかもしれないが…

 

 

25歳にして実家暮らしという現実、その現実を打破したいと常に願っていた。

だがしかし気が付くと時が流れ、精神も浮遊し、己を見失い、時計だけが進んでいく。

突然変化が訪れることを極端に恐れるようになった。変わっていくのは怖い。

自分が自分でなくなっていくのが、怖かった。

そのうちに周囲の成長に置いて行かれ、何もすることができず、

いつまでも地を這いずり回っている。

 

今まで頑張ってこれなかった人間が急に頑張れるなんて現実はあるのだろうか

「やればできる人」と何回言われただろうか。

 

仮にもし。仮にもし本体やパーツがしっかりしていたとしよう。

たが、本体の回路が壊れていれば、またはきちんと配線されていなければ

使うことができない。物の多くはそうだろう。

外装がしっかりしていても中身が伴わなければ廃棄される運命にある。

使えるようにするには外部からの適切な治療や調整が必要になる。

 

どうすれば修正できるだろう。どうすれば調整できるのだろう。

何をどうすればこれから頑張れるのだろうか。目標もないのに。

社会への不安

正直今の環境はあまりよろしくない。いやもちろんニートであることもあるのだけれど、生活環境としても決して良いとは言えない状況だ。

 

今はまず何よりも独り立ちをしたいなという気持ちがある。お国の世話になって補助金や年金の猶予をしてもらっているのだが、申し訳ない気持ちが強くなって気が滅入る。せめて一人暮らしをしたい。後輩たちも次々と社会に適合していく。自分だけ何故…という気持ちがある。

 

もちろん友人たちの中には実家暮らしもいるが、彼らは親との折り合いが良い。自分のところは昔から過干渉で無関心。今も会話は無い。何を思っているのかお互いわからんん。昔から何を話ても厄介払いのような態度をとられてきた。そうした環境下にありながら、未だに両親に寄生している。そして両親の教育が悪かったのだ、どうして両親は気づかなかったのだと責めるような感情にばかりに呑み込まれていく。

 

特にひと月前まではそうだった。だが思ったことがある。確かに昔は両親の教育も悪かったかもしれない。が、私自身がその環境を変えようとしていない現在、それは私自身の問題になる。いつまでも子供ではいられない。いやもちろん、今更どうしようもないこともある。例えば将来の夢についてもどうして自分は臨んだ道に進ませてもらえなかったのかと未だに根に持ってしまっている。だが、そうじゃない。何故今まで気づけなかった、気づかなかったことにかなり不安や焦りを感じている。

 

実際、親からの支配が強く「自分は一人暮らしもできないし、車も持つことを許されない。何かを購入する時ですら相談さえされないし、基本的に親に従わざるを得ない状況」が多かった。これは認知の歪みだった。探してみれば自分でもぎりぎり生活できるような安いアパートはあるし、物にさえこだわらなければ中古で家具だってそろえることができる。何もすべて親の思う様にならないといけないとは限らない。そのことに今更、ようやく実感を持つことができた。

 

※これは私がニートになったため親の態度が変化した影響もあるかもしれない

 

昔から物に対する執着があった。一度買ったもの、手に入れたものは捨てることができなかった。以前も書いたかと思う。だが、最近一人暮らしを現実的に考えたとき、この宝の山のうち本当に自分に必要なものはそんなにないということに気付いた。誰か友人に貸そうと思って漫画も貯めていたが、漫画より実用書のほうがおもしろい。その上漫画も無料で読める時代になった。

 

本を集めることにばかり夢中になって、その中身に目を向けていなかった。持っているからといって、その中身に目を向けていなければ無意味だ。わかっている風でわかっていなかった。何故そんなこともわからなかったのか、そしてなぜ突然わかるようになったのかは全く分からない。

 

だが突然そういった啓示が降ってきた。もしかしたら「こうしなければならない」「こうするべきだ」といったストレスから解放されたことも影響しているのかもしれない。もしくは本当の意味で何もしなくていい日々を迎えることができたからかもしれない。今までは常に「やらなければならないこと」が背中の後ろにあって、そのことばかり考えていた。自分のことを考える暇がなかったのだ。

 

もちろんニート期間にたくさんの作品に触れたことも影響しているのかもしれない。狭い世界で生きていたのだと思う。

 

といいつつも、いまだに社会に出る不安はある。大衆の笑い声は未だに怖いし、どこに行っても馬鹿にされるような気持ちは普通にある。ついこの間までただテレビを見ていただけなのに、お笑い芸人に馬鹿にされているような気持ちになったこともあった。有名人や、素晴らしい人間を見ても「こいつは実際に会ったら馬鹿にしてきそうだな」と感じてしまい、無駄に不安になってしまうこともある。

 

経験上、第一印象が良くてもその後がうまくいかないことが多い。そもそも第一印象が悪いことも多い。実際、不細工・アスペ・根暗の三すくみだ。ぼんやりした表情、締まりのない顔、伸びっぱなしの髪や髭、清潔感のない雰囲気がどうしても漂うらしい。

 

とりあえずまずは見た目も大事だと思い、筋トレを始めて見た。ハローワークにも通っている。進めることは、進めている。それから、これからのことをじっくり考えていこうと思う。

カニ

努力する人間を見ているのは好きである。自分も努力したいという気持ちがありながら、いざその環境下に置かれればすぐに折れてしまう傾向がある。というか努力の方向性を見誤って失敗する。「本当はやればできるんじゃないか?」という自信過剰すぎる期待がある。根拠はない。根拠はないが努力は報われると信じている。むしろ失敗の経験の方が多いのだが・・・。

 

 

ベーリング海の一攫千金」という番組がある。非常に有名な番組だ。アメリカとロシアの国境に広がる極寒のベーリング海で、タラバガニやズワイガニを取るために奮闘するカニ漁師たちにスポットを当てたアメリカのドキュメンタリー番組だ。

 

現在Yourubeのディスカバリーチャンネルでシーズン4が期間限定公開されている。5隻の船でそれぞれ繰り広げられる人間模様とカニ漁の過酷さ。非常にドラマチックで面白味がある。一周したのだが面白いのでもう一周しようと思う。過酷な環境で奮闘する人々は美しく見える。

 

中でもキース船長率いるウィザード号の新人二人が対照的だった。

 

人生もう後がないと決意して船に乗り込んだモイことジェイソン・モイラネン(30代)と、指示待ち人間でベテランたちから心配されるリンことリン・ギタード(21)の二人。

 

モイはカニ漁にやる気満々で、カゴへの餌付けや船長の小間使いに対して最初は文句を垂れていた。だが実際カニ漁が始まると、30時間労働4時間睡眠という過酷な環境。モイの体力は持たない。

 

一方のリンは最初こそ指示待ち人間だと揶揄されてはいたが、若さと活力があり、仕事に全力で取り組む。ベテランたちはリンがカニ漁をなめていると心配していたが、いざカニ漁が始まると若さもあってか過酷な労働を乗り切り、ベテランからのいびりにもなんとか耐え、周囲にも期待されるようになる。

 

モイは容量も悪く、どうしてももたついてしまう。リンは器量も良く最初こそゆっくりだったが徐々に仕事をそつなくこなすようになる。船長はモイにやる気を出すように伝えるが、モイは同期のリンに比べて自分だけが文句を言われ続けている様な感覚に陥り、不満ばかりが募ってしまう。

 

ある日、疲れがたまって士気の下がった船員達に、やる気を出させるために船長のキースが船員たちに活を入れた。「全員もっと誇りを持って仕事をしろ」と。モイに対しては「リンに仕事を任せないでお前ももっと頑張れ」と告げた。

 

活を入れられた船員は作業スピードをあげて仕事に取り組んだが、ベテランのレニーは長年誇りをもってこの仕事を続けていたのに、キースにそのように言われたことがショックだったようで、少し様子がおかしい。キースはそのことを察してレニーを呼び出して誤解しないでほしいとフォローする。

 

しかしその様子を見てか、どうかは分からないが、その直後モイが船長室を訪れる。「俺もリンより頑張っているのになぜ怒られなきゃいけないのだ」と言わんばかりに船長に詰め寄るモイだったが、船の上で船長に逆らうことはご法度である。キース船長はもちろん、共に働く甲板員たちもモイの行動にはあきれ果て「アイツは何を考えているんだ」「新米が船長室に行くなんてありえない」「あいつはおかしいよ」と皆が口をそろえて言うようになり、最終的にクビになってしまう。

 

ウィザード号が水没しかけたときに全員がハイタッチし合っていたがモイだけハイタッチしていなかったようにも見えた。なんだか自分を見ている様で心苦しくなった。

 

そしてカニを食べたくなった。ついでに蟹工船も見ようと思った。

 

平沢進のゲンロンカフェ

突然だが私は平沢進のファンであります。

今日はニコニコ生放送のゲンロンカフェという番組に

平沢進が出演しており、それを見た。

対談相手は斎藤環氏。筑波大学で教授もやってらっしゃる精神科医の先生。

2時間半?位のトークショーだったが、

おおまかな内容は

 ・Twitterのフォロワー増え過ぎ問題(導入)

 ・P-MODELのキャラクター、その背景

 ・平沢進は何故平沢進になったのか(学生編)

 ・夢解釈、ユングフロイトと音楽への影響

 ・Twitter宮沢賢治、アナログとデジタルの融合、平沢音楽の原点にある心理

 ・なぜ平沢進平沢進で在り続けられるのか(まとめ)

こんな感じでした。ハッキリ言ってめちゃめちゃ面白かった。

 

 

とにかく変わり者のこのおっさん、幼少期、とくに小中学生時代のことなんかは語られることがあまりなかったような気がするので見ることができてよかった。いや、会報のバックナンバーなんかでもしかしたら断片的に語られていたのかもしれないが、触れる機会が無かったので今回聞くことができてよかった。

 

平沢進に触れてから見聞がどんどんと広がっていく。エントロピー、ネゲントロピー、テスラコイルなど物理学、アンダマン、ホピ族など文化人類学フロイトユング、ペーターソン…心理学用語にも詳しくなりそうだ。決して満たされることのない好奇心や衝動に混乱する日々だが、この男について行けば満たされるのではないだろうかという期待が常にある。

 

今回の対談で平沢進自身が言っていたが、本人が好奇心の塊で、常に新しいコンテンツに興味を持ち続け、それでいてあっさりと過去の慣習を捨てることが出来るそうだ。

 

大概の場合、アーティストは一度作られたアーティストイメージ、とくに音楽的特徴は大事にするものだと思う。パンクロッカーはパンクロックをやり続けるし、ロックンローラーはロックをやり続ける。愛と平和について、政治的主張について、一つの事をやり続けることはやはり美しいものに見えるのだろう。

 

もちろん平沢進もアーティストイメージをしっかり持っている。

のだが、その軸が音楽性というよりも、精神性やメッセージ、世界観、もしくは”平沢進”自身に寄っており、音楽自体は大幅に変化していく。

 

多くのアーティストは自分の持っているサウンドや曲のメッセージ性、特に観客を大切にする。外的評価を気にしている(申し訳ないがそう見える)。例え作風が途中で変わっても、過去の作品は過去のスタイルで演奏する。過去の物は当時の形で再生する。ファンもそれを期待している。

 

しかし平沢進は違う。彼は飽きたら捨ててしまう。過去の楽曲も現在の自分が納得する様に作り変えるため、当時とはまるで違うサウンドで再生産される(これは特に他のミュージシャンではあまり見られない特徴だと思う。)しかしながら大筋は変化していない。軸であるべきところはきちんと軸として存在している。故に昔からのファンも常に新しいものに触れることが出来る。リミックスやリアレンジについても同様で、平沢の場合はバンドサウンド管弦楽にしてしまう。しかも自らの手で。そしてファンもそれを期待している。飽き性にはぴったりのコンテンツなのだ。

 

 

 

ダラダラ書くのも疲れる。

まあ、とにかく新しい事をやり続ける男と言うのはかっこいい。

そして新しいものや、時としてそれに触れたときの逆境、いやその他逆境全般が面白く感じるのだという。これは本当にすごいことだと思う。

 

俺も早く...そう思いながら求人を眺める日々なのだった。

 

汚部屋

あれが無いこれが無い...日常茶飯事である。「これがあると便利そう」意味の分からない道具が部屋を埋め尽くしている。日常茶飯事で在る。

 

思い付きの発想、独自の視点、機転で新しい事、目新しいものに好奇心でぶつかっていくのはもしかしたら良いことなのかもしれない。だが、良いことだけではない。部屋を埋め尽くす書籍や雑貨、よくわからない思い出の品々に囲まれて今日も「あれが無い、これがない」と迷い、人生の路頭にも迷っている。

 

齢25にして何よりも苦手なことが「整理整頓」だなという事が最近分かってきた。いや、中学のころに毎月書かせられた今月の目標にも「整理整頓と早寝早起き」と常に掲げてきたはずだったのだが、未だにどちらもまともに出来ない。

 

本や漫画、資料やCD、大学時代のノート、工具に配線材が満ち溢れている。部屋は異常に乱雑だがほとんどゴミはほとんど落ちていない。勿論他人からどう見えるかは別として。

 

棚を埋め尽くす漫画や雑誌、憧れのバンドのCD、名前だけでなんとなく買ったCD...お金のなかった学生時代、何もかもが貴重に思えて手放したくなかった。周囲の人間は著作権を気にせずyoutubeなんかで音楽を聴いていたが、自分にはなんとなくできなかった。当時は音楽配信サービスなんかもほとんどなかったし、そもそも契約できなかった。なけなしの小遣いをはたいてかき集めた金銀財宝だ。ただの中古漫画や中古CDといっても、何も持っていない自分にとっては宝物だった。

 

それらはただのモノそのものではなく、何もない自分のアイデンティティを形作るためのものであったのかもしれない。自分がわからないから自分の好きなこと、興味のあることを具現化するために漫画やCDで自分を埋め尽くそうとしたのかもしれない。「私はこのCDを持っている、だから私はこのバンドが好きと言ってもいいだろう」参考書を買ってその学問を制した気になる、それと同じだ。

 

大学の授業で使ったノートなんかは後で見返すとなかなかおもしろかったりもする。だがしかし、部屋もまともに片づけられない私がノートを整頓しているわけもなく、全てがバラバラ、何がどこに言っているかもわから無いままノートはゴミの山に埋もれているのだ。どうしようもないことこの上ないだろう。

 

そもそも何故片付けが出来ないのか。自分だけが使用するものなのに、すぐ元の場所に戻す必要があるのだろうか?と考えてしまい部屋が乱雑になる。どうせすぐ使うだろうと思ってしまうのだ。ところがどっこい、次に使う自分自身がその存在を見失ってしまう。

 

ということはもう一人、誰かと共同生活を送っている感覚でも持ってみれば、もっとうまく部屋も片付いたりするのだろうか?綺麗な精神は綺麗な部屋から生まれるという。この乱雑で粗雑な部屋を綺麗にするには一体何日そしてどんな収納が必要なのか全くつかめないが、常に「他の人も使うかもしれない」という感覚を胸に刻んで生きていった方が良いのかもしれない。

ブログは毎日書くことがもしかすると大事なのかもしれない

現在、室温14.5度。例年に比べると降雪量が少ないのだが、ここ数週間は寒暖差がす激しいことこの上ない。気候が躁鬱状態である。よく誰も発狂せずに生きていけるなと思いながら、ギリギリで生きている。

 

生きているといえば現在、本当の意味でただ生きているだけの人間になっている。ハローワークにもろくに顔を出さず、風呂にも入ることを忘れ、肌も髪もぼさぼさになり、それを気に留めるでもなく、ただぼやぼやと連日生きている。

 

最期に家を出たのは2月の頭。

大学時代の友人が手に職を付けたということ+私が仕事を辞めたということで、お互いの節目記念の飲み会を開くことになった。数日前からきちんと時間を確認して予約をしたのだが、友人は定刻を過ぎてもやってこなかった。ラインの既読も直ぐにはつかない。前の職場で抑圧されていた私は「嫌われたのではないだろうか」「何か自分に不備があったのではないだろうか」と鬱々とした発想が心の中で沸きあがってくる。

 

電話をかけてみても出ず、「寝坊かな」「忘れてるのかも」「ドタキャンかな」と、どんどん最悪のパターンを予想しはじめダウナーに傾き始めてしまった。うろうろと店舗入り口の周囲をさまよい(店舗は居酒屋などが数個入ったビルの一角にあり、一階はエレベーターホールになっているため、待ち合わせ場所としてうろうろする人も覆く、そこまで奇人変人の風には見られなかったが)、心の中は鬱々とした感情で溢れつつあった。

 

しかし、電話をかけたことで友人も流石に気づいたようで、返信が返ってきた。いくつかのやりとりを通して友人が時間を間違えてしまったことが判明し、一安心。先に店で待つことになった。

 

余談だが私の友人は遅刻魔が多い。もちろん自分も遅刻をする。そもそも今回は予約をしたというのが失敗だった。普段は集合してから適当に店に入るパターンが多く、予約した場合は、『待ち合わせを30分ぐらい前に設定しておくと安心』という事をすっかり忘れていたのだ。実際内心がどうであるというところは良く分からないところだが、まあとにかく我々は『定刻』に弱い。持ちつ持たれつである。

 

店はおしゃれな雰囲気の居酒屋だった。肉がメインな模様。「友人が30分ほど遅れるそうなのですが、大丈夫でしょうか?」と聞くと生命力の強そうな店員さんが若干顔色を濁らせながらもあっさりOKしてくれた(大体居酒屋の店員というものはパワーに満ち溢れているという偏見がある)。

 

友人が到着したのは約20分後だった。お互いに明るい方では無いのでぬるっと会ははじまり、近況の報告と何にハマっているか、将来の事などについて語った。肉は美味く、酒も美味かった。アヒージョやピザなども注文し、たらふく摂取することが出来た。

 

そのあとは結局二件目まで行ってたらふく(※当社比)飲んだ。「飲み放題の時間が過ぎているのに長居しやがって、さっさと出ていけよ」という風な目で見てくる店員の

不機嫌さも吹き飛ばしてしまえるぐらいに楽しかった。節制しようと思っていたはずなのだが、大変楽しい会だったのでそんなことも忘れてしまった。

 

酒を飲むのは楽しい。普段なら出来ないようなコミュニケーションも、酒を飲めばあっさりできてしまう。見知らぬ人とハイタッチして白い目で見られてもガハガハ笑えてしまうだろう。普段は人と目を合わせることすらできないのだけれど。普段から酒を飲んだ方が良いのかもしれないな。そう思いながら求人を眺める日々なのである。

儀式 (監督:大島渚)を見た

思ったこと 「桜田家、めっちゃ口悪いな!」 以下感想

桜田家に翻弄されるテルミチ、満洲男という二人の主人公が居るように思える作品だった。テルミチは頭がよく器用で聡明で色男でもある。対して満洲男は自信がなさげでいまいち踏ん切りの悪い性格でパッとしない。対照的な二人だ。

満洲男がもじもじしている時にさっと表れてはその場を乗り切れるような助け舟を出すテルミチ。しかし一方で女性関係に関しては手が早く、踏ん切りの悪い満洲男とは対照的に描かれている。

漢らしく勇ましいテルミチと陰気で責任感のない満洲男。二人の従妹のセツコは最初は満洲男に惹かれていた(と思う)が、テルミチに初夜を捧げる。満洲男の初恋の相手であるリツコもテルミチに抱かれ、そのうえ自分はフラれてしまう。満洲男はこのことで強い敗北感を味わうのであった。こりゃ枕相手に初夜の相手だと発狂しても無理はないかもしれない。

家父長制にこだわり「家督を継ぐ」ことを重視する桜田家と「好きなことを、自由に」と新しい時代を生きようとする満洲男との対比も印象的ではある。まあ満洲男の場合は家督を継ぐという親戚一同からの重圧に耐えきれず、逃げに逃げて結局フラフラしているような節は大いにあるのだが。

とにかく満洲男は踏ん切りが悪い。びっくりするほど踏ん切りが悪い、セツコが自殺するときなんか見てないで止めてやればいいのに、黙ってみているだけだった。これはフラれて当然かもしれないと思いながらも、彼は彼自身がどうしていいのかわからないし、何が正しいのか自分でもわからないと独白しているように、彼は主体性の無い若者なのである。現代っ子とおなじである。こりゃかわいそうと言われるわけだ。

満洲男はテルミチに対して強いコンプレックスがある。テルミチより劣っている、自分は駄目な人間なんだという強い思い込みがあったのだろう。また、弟を生き埋めにしてしまったという大きな精神的トラウマも抱えている。

何か成し遂げても自分の上には必ずテルミチが居る。何もかもテルミチにはかなわない。唯一の野球も母の死を受けて辞めてしまった。テルミチは恐らく満洲男をかわいがっていたのだろう、彼の為にセツコを置いて家を出ていった。しかしながら最終的にセツコもテルミチの元へ旅立ってしまう。初恋も恋も奪われ満洲男は何もかも失ってしまう。だがそのあとには何も残らなかった。ただただ敗北感だけが彼の心の中にあった。そりゃ土の下の音も聞きたくなる。

満洲男は桜田家としてでは無く、満洲男として生きるべきであるという感情やテルミチの意志を感じた。彼は満洲男を開放したかったのだろう。もしくはこの腐敗しきった桜田という一族に終止符を打ちたかったのではなかろうか。

当時の社会制度に対する風刺などがいろいろちりばめられていたそうだが、テルミチのカリスマ的な要素と満洲男の凡人的な素質の対比、桜田一族の狂気、異常な”形式”へのこだわり等、今見てもかなり面白い内容であった。

なにより満洲男の語り草もかなり分かりやすい。全てにあきらめを抱いている頽廃的な雰囲気が全体に立ち込めており、中々である。陰鬱で暗い物語が好きな人にはお勧めできる作品だと思った。

 

以下あらすじ(ネタバレ)

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