当方、社会不適合につき

アスペ系社会不適合者奮闘記 25歳現在

デンデラ を見た

無職だがアマゾンプライム会員である。

デンデラという映画を見た。

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感想

 デンデラというワードは遠野物語を知っていたので、デンデラ野からきているのだろうなというのは容易に想像できましたし、てっきり昭和の作品だと思ったら割と最近の作品でした。

 

 本作のデンデラはアマゾネスかよ!ってくらい女性中心社会で、ババアが自給自足生活している姿ってのも中々迫力がありました。ババア強い。女性中心主義で男なんかいらねぇ、皆殺しだみたいな風潮、フェミニスト界隈の風刺っぽくてちょっと安易かなとも思いました。

 

作中で、若いころ散々男性にこきつかわれた挙句、お山に登らされ、戻れば叩き殺される理不尽さに対して違和感を感じて村の男性を憎んでいるとメイは語っています。しかし、主人公が夢で思いだした過去の記憶の中では、お山が怖いと逃げ帰ってきた老婆を集団で叩き殺そうとしていたのは確かに男性でしたが、女性たちもそれを見て「あいつは村の恥さらしだ」と蔑んでいました。そういった村の掟や村の風習が嫌いだったのであれば、メイは男女関係なく村の存在自体を憎むのでは?

 

同じく高齢になりお山に登り、死を恐れ助けを求めてきた男性に対して「そこで死ね」と言い放ってしまう、あまりにも冷酷すぎる対応。デンデラは死人の世界であり、「前世のしがらみで在る村でのいざこざはデンデラに持ち込むな」と断言したメイの態度とこれらの態度は少し矛盾しています。

 

村全体を憎んでいるのであれば”男だから”という理由で助けないというのはいまいちわからない。ただし、これはあくまで現代から見た視点であり、物語の時代背景として女性が軽視されていた、または自分を虐げてきた男性が困った時だけ助けを求めてきやがって、ぶっ殺すぞという気持ちになっていたというのなら話は別です。ただそれが作中で見えてこない。

 

100年もこんな怨念だけで健康的に生きながらえているか?と思いますが、しかしその執着心がメイの健康の秘訣なのかもしれませんね。

 

主人公の心境変化はかなり分かりやすいです。村の掟を信じて極楽浄土を夢見ている主人公ですが、決してデンデラから逃げてお山に戻ろうとはしない。同じように極楽浄土を目指していたと信じていた友人がデンデラに感謝している事、そしてその友人が死をもってしてもデンデラを守ろうとしたこと、これを受けて少しずつですが主人公もデンデラに従順化します。闘いには反対しながらも、あくまで”いくじなし”になろうという態度は見せない。主人公は70歳ですが、デンデラでは新入りペーペーの若造なので、まるで思春期の少女の様に扱われています。実際、この尖った態度は10代の女子っぽい。

 

最終的にメイもいくじなしのリーダーも死んでデンデラは壊滅状態、主人公が村へ熊を案内して熊が村を襲ってバッドエンドという感じなのでしょうが、なんだかな~というかんじでした。熊にメイが憑依したのか、メイが主人公を導いて熊を村に連れていったのか、「お前が連れてきたのか」の真意が掴めなかった。いやそれがこの話の良い所なのかもしれませんが。

 

遠野物語デンデラ野という場所が出てきます。そこには60歳以上の老人がデンデラ野で暮らし、動けるものは日中村の農作業などを手伝い、僅かな食料を報酬としてもらい、デンデラ野に帰っていったとされています。小さな藁小屋でたき火をして寒さを防ぎ、死を待ちながら暮らしていたとか。姥捨て山に親を連れていかないと村八分になったとかならないとか聞いた気がします。

 

もしも実際の姥捨て山がこんな感じだったらたまったもんじゃないですね。あと雪山でこんだけ長生きできるってすごいことですよ。ババアが活躍するアクション映画とでも思いながら見た方が良いのかもしれません。老人が見たら長生きする意欲は沸きそうです。70歳から30年生きるってすごい、人生楽しそう。人生楽しく生きたいですね。

 

以下あらすじ

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本を読んでいる

様々な本を読み、見識を深めるという動作を行っております。

これは仕事を辞める前から望んでいたことであり、積読が消費されていくという

解放感もかなりあったりします。サンキュー昔の自分!

 

ただ積読、かなりの量が在るため果たして読み切れるのか否か…

今んとこ貯金が二ケタほどあるのでとりあえず奨学金と各種支払いで

1~2ヶ月持てば良い方かな、と思っているのでその間に知識と常識だけでも

補っておきましょうね~という感覚があります。

 

偏った意見や知識って言うのは時に行動の妨げになったりもするもんですからね。

新しく色々なことを始めようと一歩踏み出す際に、邪魔になったりしかねない。

ついでに高校卒業程度の知識も再度見直す必要があると思うので

色々と勉強でもしなおしてみようかなというふわっとした気持ちがあります。

本当は勉強したかった人間ではあるし、まぁ、やってみましょう。

仕事を辞めた

有給ニートになってから一週間経ちました。仕事納めで帰宅した後3日間高熱で寝込みました。うける。

 

回復してから部屋の掃除をめっちゃしました。QOLが上がりました。おめでとうございます。

 

仕事を辞める前は、仕事を辞めたらあれをしよう、これをしようという希望に満ち溢れていました。わずかながら。

 

辞めてみました。体が動きませんでした。諸悪の根源は仕事場にあるとばかり思っていました。一番の問題は家の中にあったのでした。

 

一人で生きていくためには金を稼ぐ必要があります。しかしながら、完全に疲れ果てている状況で、これ以上何か取り組もうという気分には、どうもなれないのです。

 

わかっています。現状を打破するためには、己の意志で立ち上がり、己の意志で道を切り開かねばならないのです。300回は自分で思いました。変わらなければならないと。

 

しかし変わらないのです。我が一族、一族郎党皆気が狂っています。この現状を打破するためには、この腐りった家庭から逃げねばならんのです。ですが、その気力がないのです。もう疲れてしまったのです。

 

疲れ果ててしまった。何も頑張る気がないのです。頑張ろうとしても、もう何も動かないのです。本当に楽しかったこと、やりたかったこと、たくさんありました。みんな本当にやりたいことに本気で向き合っていて凄いと思います。

 

出来ないのです。何かに邪魔されている気がするのです。何か、本当に目を向けなければならないことがある気がして、たまらないのです。本当はわかっていることなのに、わからないふりをしなければならない気がして、わかってしまうことを恐れています。わかってしまうということは、怖いことなのです。

 

十数年間、ストレス診断、鬱診断で「健康的状態です。」という文字が出たことがありません。常に「鬱の傾向にあります。病院に相談してください。」という文言ばかり眺めています。

 

一向に気分が晴れません。私は私であることを辞めることはできません。ですが、私は一族の一員であるということを都度都度感じざるを得ません。そういう環境で育ってしまったが故になのか、それとも、もう逃れられない因果律の渦中にいるのか、私は私であることに絶望しかしていません。

 

生きている意味など、考えても見つかりません。考えたところで生きていて楽しいことなど有りません。生きていて楽しい、そう思える人間が純粋にうらやましい。迫ってくるのは奨学金と、税金の取り立てばかりで、他には何もありません。

 

人と居て、楽しいと思えなくなりました。別にどうでもよいのです。

誰かが笑っていても、誰かと笑っていても、何も楽しくありません。

一人でいる方が楽しいのです。どうでもいいです。何もかもどうでもよい。

 

これから頑張ったところで、何を頑張ったところで何にもなりません。

 

失われていくものの方が多い。今更頑張ったところで、何も変わらない。頑張ってみようと意気込んでみても、伝わらない。同じように新しいことを始めた人達は上手にその場に溶け込んでいきます。

 

それができなくて、馴染める場所を探してみても、馴染めても、なんだか馴れ合いみたいで気持ちが悪くなって結局引きこもってしまいます。疲れてしまいました。

 

人と会うことに疲れてしまいました。誰にも会いたくありません。誰にも会いたくありません。疲れてしまいました。誰にも会いたくありません。誰と連絡を取っても変わりません。疲れてしまいました。疲れてしまいました。疲れてしまいました。疲れてしまいました。